忍者ブログ
毎日の思いつき。毎日の発見。毎日の反省。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ここ数年、人との距離感について
考えることが多い。

かつて、ゲームを開発をしていた時期もあり
当時のファンは、南雲を知っている。
ネットも含めて、南雲に対して予備知識が多いことから
会話をすると、短期間で、距離が相手にとって近くなる。
自分はそれでも遠いのだけれども、
ファンサービスとしては、自分の作品に対する
作品に対する想いが伝わっている嬉しさだ。
もちろん、当時はそのようなことを考えてはいない。

この時期の癖がある。
取引先も、予算を持っていそうな自分に
集まってきた。良い人も、悪い人も。
あなたのことを知っていますって。
自分は、駆け引きが嫌いなので、
貸し借りの等価交換を求めていない。
利用されている、とか
利用されていないとか、そのように思わないことは
親に感謝かもしれない。

だから、本当に真摯に付き合ってくれた人は
数は少ないけれども、いまでも
大切にしていただいて、長い関係だ。
その方々は、若い時の自分を知っている、
年上の方である。

信頼がないのに、距離を近づける人というのは
相手にとって責任を考えない人が多くて
繊細ではないことが多い。
そして、信頼関係がないのに、
ネット上であらかじめ想定していた南雲像と違うと
一気に批判的になるのではないかとも考えている。
自分は、かなり合理的でドライだと考えている。

先日も、よく知らない人から連絡があり
とある企業と打ち合わせをして欲しいということであった。

彼が社会的にきちんとした立場であることもあり、
事前の調整や準備の上での連絡ではないか。
自分に連絡を取る人に対して
不義理にしてはいけない。そのように考えた。

その先の企業担当者は
自分のことを何も知らず、双方で何か違う雰囲気となった。
その時間を何か埋めつつも、
横浜まで来たことだし、何かネタでも、繋げることでも、と
考えることで必死であった。

自分にも問題があって
かつてのクリエイター(アーティスト)モードでいる自分と
経営者モードの自分が2つあり

前者から後者に転換する場合は、ほぼトラブルになるのだ。
アーティストやクリエイターと飲んだり交流する際に
後者だと、ドン引きになる。
一方で、後者の場合は、
経済合理性のないクリエイターとは話せない。
夢物語では事業は進まない。
その折衷案はない。理念が異なるから。

最近、ネットによって
表層的に人との距離感が近かったりして、勘違いが多い気がする。
信頼に対する意味がわからない
社会経験の少ないものと、
相手を想いやることができるもの
不一致だ。

自分が使う言葉や単語が
相手にとって、どのように感じて、受け止められるか
怖いから、謙虚に話す。
あるいは、様子を見ながら、徐々に
相手の都合に合わせて
距離を近づけていく。

有名人が、何か発言をして炎上した。
その人の本当のパーソナリティや、背景を知らずに
ただただ、そのネット上の文章を見て、
行間程度の推測しかつかめず、見ず知らずの人が突っ込む。
これは、言語依存が高すぎるのだ。

正誤に関わらず、セッティングが重要で
素性の知らない人から、相手の都合もわからなく
ツッコミが入っても
その有名人は、その人に返事をするのが難しい。
素性の知らない人は、その有名人を知っている(と思い込んでいる。)

このように考えると、
相手から受け取る情報は、
言語だけでなく、表情から伝わる強さ、強弱など
本来複合的であるのに
言語にあまりにも依存がする人々が増えている。
それもわかる気もする。

散文でした。

拍手[10回]

PR
最近、鉄道オタクとか、車オタクとか、
ボクも、自分のことを言いますけれども、
とても夢中になって、深めてしまうことですよね。

「オタク」がとてもカジュアルになりすぎていて
だれでも、自分を象徴する、
代名詞のような、誰でも使える
プロフィールになっているかなと思います。

リアル充実(リ充)⇔オタク(ネクラ)
の対比ではなくて、
オタク=コミュニケーション能力の高い
好きなこと、夢中なことが多くて、
人に伝えよう、情報交換が楽しい
ってことになっています。

でも、最近気になるのは、
・オタクにも属せない人 でして
何か、自分を喪失しているというのか、
普通の人(と思っている)
自分が怖い時代ではないかと考えています。
自分に、何か特殊な個性であったり、
何か、特技がないといけないような。

特技がなくても、コミュニケーション能力が高ければ
「特に好きなモノも、勉強も嫌いだけれども
酒飲むのが好きでね」なんて、話が盛り上がれる
コミュニケーションに比重を置けるならば
よいのですが、

何も夢中になるわけでもなく、
なんとなく、好きだったから、
さほど夢中になるわけでなく
なんとなく、自分探しをするような。

もし、コミュニケーションスキルが高くて、
他者と自分の関係、距離がきちんとつかめていれば
相手からの承認によって、自分が確立できる。
それができれば、
猛烈な個性がなくても、相手との調和で
おたがい、駆け引きやキャッチボールで
自分が確立できる。

また、自分に技術、個性、能力があれば
情報の等価交換ができなくても、
他者が自分にひきつけられる。
だから、コミュニケーションスキルが低くても
自己の存在が確立できる。

じゃあ、
何も「自分に無い」としたらどうするのだろうって。
自分に無くて、他者との関係性も難しければ。

そうすると、自分に何かしら個性を
つけたくなるのではないかと。
多数派にとっては、困ったことでも。
メンヘルです、とか、リストカッターですとか。
人を困らせる、ってことよりも、
そのことで、無個性な自分を確立できる。

こんな(ボクでも)、
何か、あまり人に言うべきではない、
その人の秘密をわりと普通に話してもらうことがあって
”そのこと”ではなくて、”そのことを他者伝えられる”
時代になっているなって驚くことがあるのですが、
え、そんなことを人に言ってよいのか?
って驚くこともある。
(さらに、ボクも、若い時の、最悪でひどい話をすると、周囲はドン引きするのですが)

だから、ちょっと、一般的には
言えないことを普通に
自分について、話す人というのは、
その特殊性、病的なこと、風変わりなことを伝えないと
相手に理解や、存在を認められる
自分に自信がないのかなと、考えたりします。

ということで、
オタクがリア中であったり、コミュニケーション力が高いことになると
それから外れた人、というのは、
かなり難しくて、不適合になってしまうのではと。

自分の言動が相手にどうみられるのか。
とか。。。想像、わからない人。

この場合、挫折をして、苦しみ
嫌でも、村社会なり、他者の存在を認めて、
他者から見た自分を確立するトレーニングをしなくてはいけない。

自分の言動が相手にどうみられるのか。
ということそのものをわからない自分を自覚する。
それでも良いと思う。
なんとなく、取り留めもなく。

拍手[5回]

2か月に1回、沖縄に行きまして
行動はのんびりですが、
慌ただしく、いちおう仕事の連絡をしながら、
いろいろと、ちゃんとやっております。

今回、2-3日だったので、石垣島の藤後さんのB&Bいけないなって思ったら。
(藤後さんは、なんと石垣島でご活動です! 
ぜひみなさん遊びに行きましょう!)
るらりや

なんと、偶然お近く。
那覇でお会いしました。
連絡をもらって、走りに走って
国際通りの喜名昌吉さんのバーチャクラに行きました。


ちょっと飲んでます。。。


今回は、なんとなく、自転車を持っていきまして
沖縄を走ってみました。
自動車だとわからない、街並みがわかりますね。

引き続き、やんばる先生に診ていただいてまして、
ボクのアイデアや、企画、偶然だと思っていたこと。
ユングのシンクロニシティ(共時性)、
最近だと、セレンディピティってことだそうです。
どうも、その情報なのか、入ってくる情報のセンスが
物凄く(以上に)高くて、無駄な情報まで
入ってしまう。それは疲れるだろうなと。

何か、面白いって、根拠なしに夢中にやってみる。
結果、違うことに活用できたり、意外な発見につながる。

ボクは、そんな人生です。
別なことを目指しているから、
そもそも、多くの人がほしいものは手にしていたり、
意外と、見逃していることも多い。

ボクは、言語と動作のそれぞれの項目が、
それぞれバラつきが多く、
面倒なことに、理屈っぽいことと、感性がバトルをしているし
ノイズも含めて、情報やら空気の入り方が異常に高く、
なので、疲れるわけですが

いろいろなことを結びつけたり、発想であったり
前向きにポジティブに進めば、
良いことの好転でも
何か、ピンチの時の火事場のアイデアも
こいつなのだなと、思います。

悪いこと、不運なことも、影響しやすい。
けれども、それも受けることで、
何かをきっかけに反転するでしょう。

というわけで、
自分の理屈っぽいところ
言語を抑えて、
動作=直感を鍛えて。

そして、アイデアと企画、そして、人と人を結びつけて
楽しい、面白い、エキサイトさせようと。
痛みを伴うけれどもね。

そんなところです。

拍手[1回]

ここのところ、サンフランシスコにいったり、
東北に続き、、、

沖縄の定期検診というべき
やんばる先生の病院へ向かいました。

毎回、夜遅く(朝方)までお話をして
過集中で時間を忘れるのですが、

多くの人には当然で、
僕にとっては初めての気づきが毎回あり
面白いこと、興味津々で

連日その話ばかりになっています。
周囲の人やFacebookでも
煩いな、なんて思われているかもしれない。

飽きれば、それまでなので
徹底的に、考えたり、学んでいる。
最近、関心は自分の外側に向いて来ている。

自分の長所として考えているのですが、
気づいていなかったこと、
優先度が低かったことへの気づきが
いまさらながら、すごいこと、
ショックだなとも思っている。

目くばせや、話し方
伝え方は、言葉だけではなく、声、トーン、表情
五感で伝わる。

飛行機で
修学旅行生と、ツアーのおばちゃん一行。
実際は、おばちゃんの方が煩いわけですが、
キャビンアテンダントの方々の表情や目線を気にしてみた。

狭い空間で、
動物的にも人のパーソナルスペースが
スレスレな状態では、機嫌が悪くなるのだろう。
言葉の使い方も、そして目線や
少しでも和やかな雰囲気にするために

いつも以上に、キャビンアテンドさんは
ピリピリとした行動と、反して表情は和やか。

対応も、目線や顔の角度、姿勢など徹底していることに
初めて気が付いた。
なるほど、
ボクは、いただいたコーヒーのごみやら
周りの人への配膳のサポートに気を回してみると
目と表情に深さがある気がした。
きちんと、伝わるのだなと。
(とはいえ、多数派ではないので、そこに
CAさんを口説こうとか、損得勘定はまるでないけれどもね。)

この、
僕の気づいた感覚そのままで、飲食店に行ってみる。
挨拶をして、
ちょっと、和やかなお話をしてみる。
お店の人は、数か月前に行ったことを覚えているそうだ。
そして、サービスでメニューにないものを用意していただく。
食べた後には、感想を伝える。
(お客さんの意見や感想がとても気になるはずだ)
ご飯を食べて、食器をきちんと重ねる、挨拶をして出てきた。

当たり前なことを!

なんて、普通の人は
思われるかもしれないけれども、
ボクも、親のしつけもあり、
表層的には、態度は悪くない(と思う)し、ちゃんとしてきた(つもり)
でも、相手の立場で考えることは、まるでできなかった。

いつも、コンピューターに向かい
効率的にだとか、売上げだとか、面白いアイデアを考える。
この部分に特化していて、
ボクは、当たり前なことですけれども、自分の中に
確たる基準があって、それを中心にしている(気がする)

そうじゃない世界の人は、
ボクと深さは一緒だけれども
人がもっと存在していて、人との関係性を重視している。
人より、上や下のステータスも。
自分が一般的なのか、周りを気にしているだろう。

もちろん、ボクは、
ITやコンピュータ、ゲーム系の人種な気配は感じられるだろうし
何か、コミュニケーションが足りなくても、
そういった種族に見えるのでしょうけれども
一般的には、
うーん、でも、なにか足りないと思われるのかもしれない。

ということで、
人を良く見る
感覚を維持したまま、沖縄の街をあるくと
子供のころを思い出した。

「話すときは、相手の顔を見なさい。」
ボクは、人の顔を見ないで話していることを気づかなかった。

そこで、幼稚園の時に、言われた通りに
先生や友達の顔をきちんと見たら
かなり、注意された。
親や先生の言うとおりに、相手の顔を凝視したのだと思う。

この経験は意味があって、
生まれた時から、人の表情に意識がなかった
つまり、アイコンタクトをすることができなくて
自分以外が、自分のように利己的でも
感情的でも、世界を持っていることを知らなかったのだと思う。

自閉的で、
相手と自分の関係や距離を
はかっていなかったと思っている。

というわけで、最近どうも、
ボクは、空気の存在は理解して、実は敏感なのだけれども、
その空気の意味が理解できていないのでは
という先生の指摘に、なるほどと。

だから、
相手の配慮や要望に、
過剰に、遠慮することがあるのだけれども
そもそも、その意図を
理解できていないから、なんとなく全体性で遠慮しておこう。
ってことがある。

だから、ちょっとズレているけれども
南雲くんらしい なんて言われるのは、このせいかもしれない。



今、考えていて、
大きなテーマなのですが、
僕のような気質の人の場合、
長い時間、長い日数一人でも寂しくない。
だから、一層、周囲の人々や、共同体、社会の存在が無いと
現実感に乏しくなることが多い。

要するに、
朝、ご飯ができた、と起こされて
現実の空間で、家族がいて、友達がいて
面倒なけんかやトラブルが発生したり
酒飲んで騒いだり、遊んだり。
悪いこと、ずるをしたり。

そういった、生活や、
リアルな行動でいっぱいになっていると
今を自覚できないからこそ、
周囲の関係性によって、自分が存在することを確立できる。

逆に、もし
現実での人々との関係性が希薄になってしまうと。
自分を中心とした思考がかなり支配をするので、

社会そのものの存在を疑ったりして
哲学的な思考。
存在とか、時間とか、物質とか
深くロジカルになると、脱社会的な発想になり、
生きることそのものの価値が何なのか
分からないから、調べたくなったり、疑ったり、
普通には、スリリングなことでも、確かめたくなる。

イスラム国に若者が関心を持つってことも、、

バックパッカーで学生時代に旅をする
ことと類似しているけれども、
通常は、
世界中の人々との関係性を広げたいという意味がある。(と思う)


けれども、渡航経験が少ない者が、
イスラム国に行くということは、
そもそも
日本や、多くの多数派的な国家や、社会、
常識そのものを疑い
現実感を確立するためじゃないかなと
若者の気持ちにもなってみる。

だから、
現実の人とのつながり、が大切
という短絡的なことではないのだけれども、

周囲の共同体での支えが無いと
危ないなと考えている。

言葉が無くても
人のつながりや、非言語的なコミュニケーションが
希薄になると、ボクみたいな人は楽なのだけれども
そして、1日8時間も机に向かい、PCに向き合っているのが普通だけれども
日常の行為に現実感が乏しくなる。

だから、一人にならないためにも、
集中できないとか、息抜きということは必要で、
仕事でも、お話をしたり
フラフラして、給湯室で噂話をするような
IPメッセンジャーで、私用なやり取りをすること
ズルしたり、いい加減だったり。
極々普通なことも、とても意味があるのだな

と、いつものように、取り留めないのですが、
考えてみた。

拍手[4回]

アプリ「斉藤さん」に集中するために
車でずっと、ずっと、会話や中継を聴きながら
茨城、宮城、山形、新潟と移動しました。

人の会話やコミュニケーションは面白くて
また、主婦の方や、年配の方などが参加して
ボクたちが作ったサービスで
人間関係ができていくこと。

そして、使っている人たちは、
ボクらのことを知らないし、興味もないだろうし

そして、知らない、アプリやソーシャルなんて
どうでもいいのかもしれない。

けれども、自由だからこそ、
荒れていたり
おかしい雰囲気になるのかな?
って思っていたことが、
いろいろ、コミュニティを形成することによって、
前向きな空気になる
そのようなコトも分かってきました。

地方の国道や、山道、峠を越えて運転していると
その街の風景があり、寂しくもあり
また、登下校の時間から、暗くなると
地元の軽自動車があふれて、帰宅していて、
夜も早い。

情景というのでしょうか。
感じる何かがありました。
バス停があると、ぼーっと僕も待ってみたりして。

台風の前に、石巻や酒田市に行き
若い人たちと一緒にお酒を飲んだり
街を歩いてみて

かつてのマンガやゲームのように
アプリは、新しい文化を創っていき
良くない見方もあるし
それによって、トラブルもある。

けれども、人々のつながりという意味では
新しい、昭和の青年団のような
機能なのだな、なんて思いました。

ボクは、温くて、合理的でもない
そして、喧嘩も、勇気も、いろいろあるコミュニティを作っていくのに
多数派的な思考もなく、
そして、作るボクらも、なにか計算的で
失敗出来ないような、
面白いことを、何故かと考えてしまうような
最大の欠点だと考えていて

分からないなりに、しばらく考え、悩んだ。

多くの人は、状態も、悪くないのに
何故なのか?

って思うのかもしれないけれども、
ある意味、ボクに支配をされているのか
キチンと仕事をしないといけないような、
出勤簿やシステムを守ることを重視し
会話も、
温度感の共有も無いような、組織というのは
自分の反映でもあり、
客観的に考えてみた。

かなり、ボクが考えるには効率が悪いのですが、
ボクという性格気質を中心に集まる人、傾向を分析をして
三つのグループに分けてみた。

・システムや管理をするグループ
・一つのことを深く研究するグループ
・コミュニケーション、人とのつながりを大切にするグループ

最後のグループが一番足りなくて
人とのつながりを大切にするからこそ、上下の関係もあり
また、面倒でもあり、
ある意味、技術はないけれども、空気や雰囲気を大切にする。

ボクは、これまで、
このグループというのが認識していなくて
多分、大切じゃないから意識をしていなかった。

今まで、順調にうまく行っていたことも
あるし、ボクらは変わる必要は無い
けれども、これから、いろいろな価値観の人を受け入れ
影響をし合って活動出来ること
これだと。
わりと、技術的な単一な傾向の人が集まっていたのだ。

必要なことは、
技術でもアイデアだけでもなく、
様々な人、英知の集合。
この部分なのだ。
って気がついた。本当に最近。

ボクは、ここ1年もの、なんだか凄い本を読み、
根拠をさがし、
主治医の先生にも意見を聞き、
相当遠回りしたけれども
確信が持てた気もする。

重要なのは
自分に無い要素を頑張って伸ばすことでもなく
人が集まって、夫々補完をし合うことなのだと。

本当は、考えることでもなく
理屈でもなく、
動物的なことなのかもしれないけれども。

(抜けていたので再アップ)

拍手[1回]

HOME 次のページ
photo by 七ツ森  /  material by 素材のかけら
忍者ブログ [PR]
プロフィール
自己紹介:
仕事と遊びが、遊びの仕事が、どちらかはわかりませんが、必死に毎日考えて生きています。
Twitter
Twitter ブログパーツ
ブログ内検索
カレンダー
02 2024/03 04
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
アクセス解析